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兵庫津ってなんだ?

兵庫津(神戸市兵庫区沿岸部、神戸市営地下鉄海岸線「中央市場前」駅周辺のエリア)は、平安時代末に平清盛が日宋貿易のために建築し、室町時代には足利義満の日明貿易の拠点として栄えた港です。もとは行基が整備した摂播五泊(摂津国~播磨国にかけての五つの港)の一つ、大輪田泊で知られていました。

兵庫津は、古くから航路として利用された瀬戸内海にあって、六甲山系によって北西の季節風が遮られ、西からの荒い波が和田岬によって防がれ、さらに水深に恵まれた天然の良港だったのです。

安土桃山時代、織田信長に対し謀反をおこした荒木村重を攻撃し、花隈城を落とした池田恒興はその功により村重の所領を与えられますが、恒興は花熊城に入らず、より海に近い兵庫津に兵庫城を築きます。江戸時代になると、この地は尼崎藩の所領となり、城内の御殿を用いて陣屋が置かれました。西国街道(山陽道)も通り陸海の要衝だったこの地は、後に幕府の直轄地(天領)となり、陣屋を縮小して兵庫勤番所が置かれました。

江戸時代、兵庫津は人口2万人を超える大都市でした。北前船が運搬する様々な物資の集散地であり、北風家や高田屋などの豪商や発明家の工楽松右衛門などが活躍しました。また、朝鮮通信使やオランダ商館長一行の宿泊地でもありました。

陸海の重要地だった兵庫津は何度も合戦の場となり、また、大地震の被害をうけました。そしてその度に復興を成し遂げてきました。

幕末の動乱期、兵庫(神戸)開港を経て国際貿易港としての地位は東の神戸港に譲ることとなりましたが、明治以降、兵庫津は産業の拠点として日本の近代化をささえました。太平洋戦争、そして阪神・淡路大震災による被害を乗り越え、時代の変化とともにみなとの形態を変えながら、発展を続けてきた兵庫津。

その重層的な歴史を今に伝える史跡が街の中に点在しています。


『摂津国兵庫津細見図』(江戸時代後期)出展:国立国会図書館ウェブサイト

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